忘れんぼシオンへ愛をこめて
「私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。」
夜を追いかけなければ、私は彼を忘れてしまう。
夜が、彼を連れ去ってしまう。
連れていかないで。私からその人を奪わないで。
闇夜を駆ける。身体は重くて鉛のよう。
それでも私は夜を追いかけていた。
桜の花が風に攫われて、星になった。
彼はホワイトデーの日に、私に好きだと伝えた。
それから毎日のように私に好きだと伝えてくる。
彼のことは意識したことなかったけれど、付き合うなら彼がいいなと思っていた。
幼馴染で小学生からの付き合い。喧嘩もしたしゲームもしたし勉強も教えた。
どこかへ遊びに行くときもずっと一緒だったし、本当に仲良しだなってクラスの子たちにはよく揶揄われた。
彼は少し頭が悪くていつも私よりテストの点数が下だった。
彼は足が速くて運動会では人気者だった。
ノリが軽くて悪ふざけもあったけれど、誠実で優しい人だった。
一緒に過ごす毎日が好きだった。
彼と居ると退屈しなかった。
だから、私の答えは変わらないんだろう。
それが恋愛感情なのかどうかは分からなかったけれど。
関係が変わるきっかけになるのも、悪くないと思ったから。
私もいいよ、付き合おうと毎日受け入れた。
彼はきっと毎日、同じことを言ってくれた。
私もきっと毎日、同じことを答えていた。
彼が事故にあった。
飲酒運転の車に轢かれて即死だった。
本当に一瞬の出来事だった。
隣を歩いていた彼が、私のことを突き飛ばして、すぐ轟音が鳴って。
顔を上げることが恐ろしかった。
恐ろしいという感情以上に、動けと心が命令した。
車が塀に突っ込んでいた。
彼はそこに挟まっていた。
顔は見えなかった。
動かなかった。何の声もしなかった。
きっと痛いと思う暇すらなかった。
叫んだ。何度も彼の名前を呼んだ。
泣いて、喚いて、叫んで、泣いて、泣いて、泣いて。
壊れたダムの水のように、溢れた感情が止まらなかった。
だけど、トラウマにはならない。
これじゃあ私が薄情者になってしまう。
私が独りになってしまう。
嫌だ。何で。
彼が何をしたというの。
心の傷として残ってよ。
私を独りにしないでよ。
ねえ、夜、お願い。
彼を、連れていかないで。
忘れたくない。忘れたくないの。
こんなに突き動かされるくらいに、彼のことが大切で、大好きで。
離れたくない。ずっと一緒に居たい。
お願い。
傍に居させてよ。
お願いだから。
トラウマでもいいから。
心の傷でもいいから。
皆は必ず私から彼を隠す。
私の世界から彼がいなくなってしまう。
誰も私に、彼の話をしなくなってしまう。
忘れてしまうくらいなら。
一緒に居られないくらいなら。
あぁ、私、本気でこの人が好きだったんだ。
分かってしまったら、もうだめだった。
夜が彼を連れ去ってしまう。
夜から彼を奪い返さなきゃ。
まだ、彼と、一緒に居たくて。
いかないで、傍に居て、そう懇願するように、夜に奪われないように、朝に追い付かれないように。
「もういいんだよ。」
足が止まる。
重たかった身体が嘘のように軽くなった。
後ろから、彼に抱きしめられた。
もういいなんて言わないで。
振り返ろうとしたけれど、ぎゅうと抱きしめられて振り返れなかった。
「もう、いいんだ。」
もう一度、言った。
嫌だ。
いや、だ。だけど、私には振りほどくことができない。
夜を追いかけなくていいと言っている。
夜を追うことを諦めて、手を離せと言っている。
そんなこと、できるはずが。
「愛してる。ずっと、愛してる。」
言葉を紡いで、紡がれて。
夜には、追いつけないことを思い知らされる。
抗っても、藻掻いても、夜が来れば、朝が来る。
朝が来れば、お別れだ。
鬼ごっこはもうおしまい。
後は受け入れるしかない。
嫌だと何度も何度も叫んだけれど。
もう、いいの。
それは、どっちの言葉だったんだろう。
「ありがとう。」
交わす言葉一つ。
交わす身体二つ。
交わす時間三つ。
後は、笑顔で。
苦しかったよね。辛かったよね。
何もできなくてごめんね、それからずっとずっと傍に居てくれてありがとう。
「おやすみなさい。」
私は彼に告げた。
彼も私に告げた。
行ってしまう。二度と会えなくなってしまう。
分からなくなってしまう。
だけど、あぁ、もういいなんて言われてしまったら。
言ってしまったら。
私は夜を見送った。
彼を見送った。
そうして朝が来る。
いくら夜を追いかけても、朝は残酷に私たちを捕まえてくるんだ。
「愛したかった。」
弱音が一つ、朝の訪れに吸い込まれた。
机に突っ伏してしまっていた私は、違和感を感じて目元に手をやった。
濡れていた。それは熱を持っていた。
ひりひりと目頭が痛い。
一体どんな夢を見たのだろうか。
思い出そうとしても、何も思い出せなかった。
朝食はトーストと牛乳と目玉焼きとサラダ。
母の笑顔がぎこちなかった。
珍しく真っ黒の服を準備していた。
何かあったのかと聞いても、何もないと答えた。
食べ終えて、着替えて、行ってきますと家を出て。
私はいつものように交差点へ向かった。
いつも一緒に登校するために、彼と待ち合わせをしている場所へ。
今日はどんなことを話そうか。
白鷺高校 2年3組 星野 紫苑
2020年3月15日 記憶障害を発病
病状:2020年3月10日以降の記憶が消える
原因不明の難病 記憶は睡眠を取るとリセットされる