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アレース・ヘリクテールをあなたへ

 私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。
 そう語り始めた老人は、遠い日を思い出すように瞠目しました。


 空に藤が咲き、それが散って橙色の雛罌粟があでやかに咲き誇ると、ようやっと地平の彼方から濃紺のヴェールがやって来ます。
 美しいそのヴェールは、時が経つにつれて輝くたくさんの金平糖に飾られてゆき、きれいな貴婦人がまとう素敵なヴェールになるのです。

 ホープは、そんなヴェールを見て思いました。

「いっとうきれいな、赤い金平糖をあの子に」

 蠍の心臓よりも、狩人の肩をいろどる飾りよりも、きれいで真っ赤な金平糖を。
 大好きな月下美人の精であるあの子にあげたい。
 そうと決まれば、探さなければ。
 ホープは空に裾を広げる濃紺のヴェールを追いかけて、お外へ飛び出していきました。

 ホープは野を駆けました。
 狼がヴェールを飾る銀のブローチに遠吠えを上げていました。

 ホープは湖を渡りました。
 真ん丸のブローチを喜んで、妖精達が踊っていました。

 ホープは山を越えました。
 時々落ちてくる金平糖の欠片を、山の神が掬ってお酒で飲んでいました。

 ホープは谷を飛び越えました。
 よく見ると、谷底から金平糖に手をのばす巨人のおじいさんがおりました。

 ホープは海を泳ぎました。
 海の真ん中で、ブローチと金平糖の共演に目を輝かせる親子の鯨がひれを振ってくれました。

 ホープはずっとずっと遠くまで行って、とうとうたどり着きました。
 からすの濡れた羽のような髪をした、ヴェールの持ち主。
 夜の女神さまのおひざもとで、ホープはお願いをしました。

「女神さまが持つ、真っ赤な金平糖を分けてください」

 あまりにも遠くから訪れた旅人に、女神さまは喜んで金平糖を分けてくれました。
 それも、真っ赤な金平糖の中でもいっとうきれいなもので、なんと女神さまのピアスの片方でした。
 ホープはたいそう喜んで、何度もお礼を言ってピアスを手に帰りました。
 遠い遠い道のりも、月下美人の精であるあの子の喜ぶ顔を想像したら、ちっとも辛くありませんでした。

「ただいま!」
「お帰りなさい、ホープ。今まで何処へ行っていたの?」

 穏やかな笑顔でホープを出迎えてくれた月下美人の精に、彼は女神からいただいたピアスを手渡しました。
 そのいっとうきれいな金平糖にびっくりした彼女は、まじまじとホープを見つめました。

「こんな素敵なピアス、いったいどうしたの?」
「女神さまから分けてもらったんだ!」

 その時の彼女の顔ときたら!
 お祝いの日とお祭りの日を一緒くたにしたような顔をしていました。

「君にあげたかったんだ」

 ホープがはにかんで笑うと、彼女はぎゅうと彼を抱きしめて、花咲くように笑いました。

「何よりも、あなたのその気持ちが嬉しいわ。ありがとう、ホープ」

 その笑顔は、ホープにとって一生忘れられない宝物となったのでした。



「……これが?」
「あぁ、そうだよ」

 病床の老人から手渡された紺色の小さな箱を、冒険者のリーダーはそっと開きました。
 中には、赤橙色の小さな石が付いたピアスが片方、入っていました。

「私ももう長くない。本当は自分でお返しに上がりたかったんだが……、この通りでね」
「わかった。……私達が、必ず返そう」
「頼むよ」

 他の冒険者ならそう言ってピアスを懐に入れ、質屋にでも売りに出していたでしょうが、彼らは違いました。
 老人の家を出て、人通りの少ない路地で足を止めると、リーダーは口を開きました。

「お前、これを寄越した夜の女神を知っているだろう?」
「ええ、そうね。でもどうして気付いたの?」

 リーダーが恋人である黒髪の魔女へ声をかけると、魔女は悪びれもせず答えます。
 何の気負いもなく言ってのける恋人に、内心溜息をつきながらリーダーは言いました。

「依頼書の時点で荒唐無稽な内容だったにも関わらず、お前は一度も反対しなかったからな」
「ふふ、バレないように黙っていたのが仇になっちゃったわね」
「魔女さん、夜の女神さまとお知り合いなんですか?」

 ワーウルフの少年が目を輝かせて問うのに、魔女は苦笑しました。

「ちょっとした腐れ縁なのよ。まさか遠くから訪ねて来たからって、火星をあげるなんて思わなかったけど」
「……かせい?」
「そう、火星。マーズ、アレース、火夏星」
「異称でおっしゃらなくとも分かりますよ、レディ」

 人にしか見えない悪魔の老紳士が引きつった笑みを浮かべながら、まじまじとピアスを見ました。

「これが、火星?」
「流石にそのものではなくて、火星の核だけどね。金星と対でピアスにしたって聞いたけど、まさか実物を見るとは思わなかったわ」
「金星もピアスになさっているのですか……。また風流なことで……」

 火星の核とは何だ、とは恐ろしくて誰も聞けないので、全員の視線がピアスに集中します。

「火星さん、きれいですね……」
「あぁ。……だが、他所の持ち物だ。返さねばな」
「真面目よねえ、あなた」

 くすくすと笑って、魔女はリーダーから箱ごとピアスを受け取ると、勢い良く頭上へ放り投げました。
 すると、見た事の無い魔法陣が瞬時に浮かび上がり、ピアスの入った箱は影も形も無くなってしまいました。

「……いや、情緒!?」
「はっはっは、そこで情緒を気になさる貴方も肝が据わっておりますな!」

 元の持ち主の許に帰ったか否かではなく、妙な間の悪さを気にするリーダーもこの面々のリーダーだけありました。
 魔女は仲間達のやり取りに笑みを浮かべながら、手許に滑り込んで来た走り書きに目を通します。


 “確かにお返し頂きました。良い夢を、とお伝えください。 夜の女神”

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