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私の夜

 私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。

「カメラ、電池大丈夫?」

 

 私が訊ねると、彼はポケットのプラスチックケースをガラガラと鳴らした。
 いくつかの予備バッテリーが入っているらしい。
 私は少し眼鏡を直すと、グッと親指を立てた。

 

 

 

 私たちは、夜を見たことが無い。

 

 居住区にだって、消灯はある。
 でもきっと、宇宙に浮かぶ人工の居住区で定刻通りにやってくるそれは、本物の夜とは違う。

 

 月だって、詩の中では宝物のように描かれる。
 私たちにとっての月はクレーターと都市に覆われた、一つの国だ。
 月に住んでいるのは、ウサギでもカニでもない。人だ。

 

 そんな私たちではきっと、「夜」を感じることはできない。

 

 夜が見たい。

 そんな思いはいつか、私たちを、危険な地球探検へと誘った。

 

 

 彼は襟元をパタパタと仰いだ。
 この辺りは日中、不快に熱い。私たちの下着は、汗でぐちゃぐちゃだ。
 疲れた私たちは、大きな木の根元に荷物を置き、身軽になって、もうすこし見晴らしのいい高台へと登っていく。

 

「月夜には 姿は見えぬ 梅の花 香りはやがて 私を導く」

 私はふと、古い和歌を、うろ覚えで読んだ。

 

「昔の人は夜を、目だけじゃなく、五感で感じていたんだよ」

 

 彼は、一瞬ポカンとした。

「ライティングが弱かったってこと?」
「ライトなんか無かったってこと」

 

 まじ? と表情を歪める彼に、私はピンと人指し指を立てる。

「昔の人は、みんな夜を愛していた」

 

 彼は、草の上に寝ころびながら「流石は原始時代」とつぶやいた。
 そしてその目は、一瞬ぎょっとしたように、頭上を注視する。

 

 

 

 私たちの頭上では、雲が血に染まったように
 グロテスクに赤黒く輝いている。

 

 彼が不安そうにこちらを見つめる。

「爆発したりとか、ないよね、この星」
「たぶん」

 不安をよそに、生暖かい風が吹き抜けていく。
 辺りからはザアザアとノイズが聞こえる。
 これは草木がこすれる音なのだろうか。

 

 地球に人はいないけれど、思っていたよりもノイズが強く、不安を掻き立てられる。

 

 

 

 俺、分かったよ、と、彼がいた。
「昔の人は、いつも不安だったんだよ。昼間は、気が狂いそうな青。それが気が付くと、天罰みたいな赤色に変わっててさ」
「だから、みんな夜を待っていた?」
 彼は寝ころんだまま、私に目を合わせ、コクリとうなずく。

 

「歴史と同じさ」
 再び天球を見上げた彼が言った。

 

「生き物が生まれる前、長い間、この星は荒れ狂う水の星だった。それが生き物が生まれて、今度は血で血を洗う殺し合いの、赤の時代になった」

 

 彼はそんなことを言い始めた。
 折角、地球に来たというのに。

 

 

 


 ……彼は、私の理想の人間ではない。

 

 理屈っぽくて人の気持ちが理解できない。
 でもなぜか、私は彼とよくつるんだ。
 だいたい、夜を見るためだけに地球に降りようなんて馬鹿な誘い、彼でなければ誰もOKしてくれないだろう。

 でも彼は、私の理想の人間ではなかった。

 

 

 しばらくの静寂が続いた。
 気が付くと、太陽はいつの間にか山並みに隠れ、天球は色が抜けかかっていた。
 そうしてゆっくりと宇宙が透けて、完全に頭上は宇宙一色となった。

 

 

 

「これが夜……なのかな」

 

 問いかけようと振りむくも、もう彼の顔も見えない。
 代わりに、彼の手を握った。

 

 彼も、なにか圧倒されているような、少し芯の抜けた調子で尋ねてくる。

「どう、初めての夜の感想は」
「暗い。暗すぎて怖い」

 

 こんなに、どこにも明かりのない、真っ暗な空間は初めてだった。
 立ち眩むような闇。

 

 

 

 私は、たしかに初めての光景に感動していた。
 でも。
 どうしても、この気持ちの底から湧き上がってくる疑問を払拭することはできなかった。

 

 

 

 ――これは、夜なんだろうか?――

 

 私には、居住区の星見窓からのぞく宇宙と、この夜の違いが分からなかった。
 もっと言えば、この夜を焦がれた、昔の詩人たちの気持ちが分からなかったのかもしれない。

 

 

 

 ――きっと夜は、こんなじゃない――

 

 

 

 そんな焦りが強くなる。

 私の気持ちを知ってか知らずか、彼は月をみてはしゃいでいる。
 ”なあ、あそこに見える黒い粒、あれ、月の首都だよな?”

 

 うるさい。

 

 ザアザア。
 ザアザア。

 

 ノイズは、私の耳を掴んで離さない。

 

 私の前歯が、唇の内側を噛んだ。

 

 

 

 

「そうだ! 写真写真」

 

 彼が、不意に私の手を離した。
 あっ、と、声を上げることもできなかった。
 彼が闇の中、どこかに走っていく音がする。
 私にはその背中は見えない。

 

 

 

 暗闇の中に、私だけが立っている。

 

 

 

 いや、なんだか立っているのか、倒れているのかも、よくわからなかった。
 ただ遠くに月だけが浮かんでいて、何も言わずにこちらを見つめている。

 ザアザアとうるさかったはずの草木は、風と共に収まっていき、なぜかその音をピタリと止めた。

 突然、何かが私の手を掴んだ。

「ごめん、暗すぎてカメラ分かんなかった。明るくなったら探そう」

 

 彼だった。
 彼は真っ暗な中、迷いもなく私の手を取っていた。
 私は、少しも彼のことが見えなくなっていたのに。

 

 私が不思議そうにしていると、彼は、だって、と語りだす。
「ずっと叫んでたじゃない、俺の名前。」

 

 そうだっけ。

 

 だとしたら、ちょっと恥ずかしい。
 ううん、とても恥ずかしい。
 すっごい恥ずかしい。

 

「カメラは見えなかったけど、声は聞こえるからさ、この闇の中でも。それに……」

 

 彼はちょっと、バツが悪そうに付け加える。

 

「汗の、すっぱい臭いもしてたから……」

 

 私はもう片方の手で、彼の頬を軽くビンタする。
 静寂の夜に、ぱしん、という間の抜けた音が響く。
 でも、彼に取られた手は、ずっと強く握り返していた。

「俺なりに考えたんだけどさ」
 彼は、自分の眼鏡を、目の上にずらしたり、戻したりしながら言う。
「夜、宇宙、夜、宇宙……」
「なにそれ」
「宇宙ってさ、居住区でも船でも、ガラス越しじゃん? 肉眼で見れるっていうのが、夜と宇宙の一番の違いかなって」

 あまりにも単純で夢の無い話に、私は呆れてプッと噴き出してしまう。
 やっぱり彼は、私の理想の人間ではない。
 そう思いながらも、私は彼の手を離さない。

 私も、眼鏡を外してみた。
 星はにじんで、あまりにもぼんやりとしてしまい、まともに見ることはできない。

 

 この夜は、私の理想の夜ではない。
 それでも私は、きっと、やっと夜を見ることができたのだろう。

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