馬車の用意は未だ有らず
私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。
天空に存在する城から夜の神が逃げ出して、数年。片翼を失った昼の神はさめざめと泣き暮らし、空には灰色の雲がたちこめてしとしとと雨が降り、しかし決して真の闇が訪れることは無い。
地上の作物は育たず、川はある場所では氾濫し、ある場所では干上がって。生き残ることのできなかった人間の抜け殻は折り重なって。見るに堪えない世界を、天空の民に見せつけた。
『夜を、追え』
全知全能の主神は私を呼び出し、重々しい声でそう告げた。
『防人のお前が目を離したのが、元の原因。夜の向かった先には夜が訪れる。それを追って、連れ戻せ』
そもそも全知全能ならば、あなたが出てゆけばすぐに見つかるし、その大きい手の一握りで捕まえられるでしょうが。
……などとは、口が裂けても言えなかった。主神は永い時を生き過ぎて、少々ボケもといお疲れになっていらしたのだから。
かくして私はトネリコの杖を手に、背の翼を羽ばたかせて、地上に降り立った。
翼を隠し、旅の探求者を装って地上を巡る中、夜の噂はあちこちで聞いた。
通り過ぎた後に周囲が一晩中暗くなって、久々にぐっすり眠ることができた。
雨が止んで天の星座を観測できた。
本人は楽しそうに踊りながら去っていった。
どれもこれも、夜を好意的にとらえる評価で、私は痛んでくる頭を抱えたくなった。
夜は天空にいる時からそうだった。奔放に振る舞っては周囲をはらはらさせ、『夜は私に興味が無いのでしょうか』と心配性の昼にいつも悲しそうな顔をさせて。
『もっと人と近づきたいなあ』
地上を眺めては、うっとりとした表情で嘯いていた。
『私たちは人を知らなすぎる。ただもたらすだけではなくて、彼らの本音をもっと聞きたい』
そう、興味。夜は人間に興味を持ちすぎた。そして持ち前の気ままさと行動力で、人間を知る為に本当に地上へ降りてしまったのだった。
どれだけ迷惑をかければ気が済むのか。いや、『迷惑』という概念を、夜は持っていなかったのだ。それを知らない程、神としては純粋すぎる故に。
「その風体の人なら、一週間前にここを通り過ぎていったよ」
地上に降りて、どれだけの月日が過ぎただろうか。数えるのも億劫になってきた頃、ある町の人間が、最も近い情報をもたらしてくれた。
「この辺では珍しい、烏の羽みたいな真っ黒い髪だったから、よく覚えている」
その者が楽しげに舞いながら去った後、やはり他の場所と同じように、闇夜が訪れたのだという。
また頭痛がしてきた。夜に罪悪感などというものは無いだろう。誰もが夜を闇の御遣いとして感謝を抱き、この世界を救ってくれる者だと思っている。地上を今の状態にした張本人であることも知らないで。
「……この、クッソ幼稚神」
天空の城で放ったら、礼儀に厳しい戦の神に往復四発は平手打ちされる悪たれ口を叩いて、私はトネリコの杖でどん、と地面を突く。
捕まえたら、まずはこの杖でぽかぽか頭を叩いてやるから、覚悟しろ。そう決意を新にして、情報をくれた人間に礼を述べると、私は力強く地面を踏みしめて歩き出した。
私は、もう、ずっと夜を追いかけている。