西へ
私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。朝がくることを希望と謳う箱のなかで、私は小さな棘として存在している。箱を壊すことはできないだろうけれど、穴くらいならばあけられるのではないかという期待を、一縷の望みとして抱いている。
朝がきて夜がくるように、私たちは循環することを塞きとめられない。子どものうちは大人になりたいと言い、大人は子どもに戻りたいと言い、若くていいねと言うその口で、若いくせにと下に見る。戻れない妬みを受け継いでいく。ああはなるまいと思ったものが、いつの間にか自分に染みついていることを知る。
私は西へ西へと歩みを進める。心臓に重大な欠陥のある私の速さはおよそ時にはかなわなかったが、それでも夜を求めて追いかけていく。雑音を振り払い、技術を退け、ただひとり犀のようにゆく。いや、ただひとり、犀のようにゆこうと願う。
これ以上はどうにもならない。かみさまが現れたのは、ああついに、ここが私にとっての果てかと頽れたときだった。
「かみさま?」
瞬きひとつで姿を見せたそのひとに、私は聞いた。
「神様だって? 信心深いね」
「別に、ただ、そう思ったから」
「じゃあ、それでいいよ」
結論からいえば、そこは私の果てではなかった。かみさまに介抱され、いつの間にかまた進めるようになっていた。私は進まなくてはならなかった。それで、とりとめのない歩みが、なぜだか二人旅に変わってしまった。
かみさまは男のようであったが、女といわれれば私はそれを信じるだろう。かみさまは角度によって表情の異なる見目をしていた。ゆるく外に広がる服を着て、体のラインが一目ではわからないことも中性的な印象の一因だった。脚は細く長く、やはり決定的な性差を感じさせない。
ある程度の荷物を背負う私と異なり、かみさまは何も持っていなかった。水を飲まずとも物を食べずとも平気だからと笑った。かみさまはどこから持ってきたのか、新しい靴を私に宛がった。私のためにつくられたのではと錯覚するほどぴったりのその靴は、前の靴よりずっと足に馴染んだ。
「よくこんな荒野まで歩いてこれたね」
「宝くじ、当たったから」
「いくら?」
「三億」
「それはすごい」
かみさまと一緒になってから、あたりはいつも夜だ。頬をなでる風が心地よい。星々が明るく先を照らして、月が私たちを見守っていた。心臓の痛みで私はたびたび足をとめたが、かみさまは何も言わずにただ待ってくれていた。たまの雨の日は、ふたりで雨宿りをして過ごした。雨の日は仕事が減って楽だとかみさまは言った。
「梟は健気だね」
時折、何の気なしにかみさまはごちる。夜を求め夜に生きるからと、私は梟と名づけられていた。
「私、かみさまに会えたら聞きたかったことがあるんだけど」
歩きながら話すのは至難の業だったが、呼吸音を激しく鳴らすことになっても、かみさまは何も言わなかった。私にとってはなによりもそれがありがたかった。
「なあに?」
歩幅を緩めてくれるかみさまと、犀どころか蝸牛のような速度で西へ進む。もしかすると、蝸牛よりも遅く。
「祈るときって、どうしたらいいのかなって」
「つまり?」
「手をね、こう、手の平を合わせるか、指を組むか……」
「なんでもいいよ」
かみさまはからりと笑った。
「どちらにせよ、互いに気分なんだから」
信心深いね、と出会ったときと同じ言葉を投げられ、私は違うと反論したかったものの、もう声を発するだけの気力は残っていなかった。
「祈りというのはね、空間だよ、梟」
砂漠の砂に足をもつれさせながら、私はなんとか先に進む。もうかみさまの背中を見ている時間のほうが、一人で出てきたときよりずっと長くなっていた。
そして雰囲気だ、とかみさまは続けた。
手を合わせようと指を組もうと頭を垂れようと鶴を折ろうと、あるいは何の動作もなくたって、祈りであるというのなら祈りなのだと言った。動作はすべて、祈りという空間をつくりだすための区切りでしかないと。
「だから梟、形式にこだわる必要はないんじゃないかな」
空間はここにある、と、かみさまは私の胸をとんと指さした。
「そしていかなる人間の祈りも、聞き入れるかはこちらの勝手だ。気にすることはない」
「かみさま」
「私は神様じゃない」
よくがんばったね。さあもうおゆき。
背中を押されて思わず動いた一歩目の軽やかさに、私は驚いてむしろよろけた。明らかにこれまでとは体の動きが違う。息がしやすい。くるしくない。
「なまえを、名前を教えて」
時間がない、ということを、私は直感的に理解していた。さようならを告げるよりも知りたいと、とっさに口をついて出た。
「帳」
帳より前に出ると、そこはもう夜ではなかった。もっとも朝でもなかったが、私の愛した夜は、帳にあった。
「愛しの梟。私の気が向いただけだよ」
はっと病室で目覚めたとき、夜の帳がするすると開き、箱は新たな一日を迎えようとしていた。もう大丈夫ですよ、という声がにわかに届いてきて、西の果てにたどりついてしまったことを私は理解した。