ろくせんたび焦げて陰になる
私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。私という輪郭をくっきりと映し出すが如く、燦然と輝く太陽が怖いから。灼かれるほどに光を注ぐそれは、私には似合わない。暗く冷たい場所に逃げ込みたいという湿り気を帯びた願望は、いつの間にか私の心臓の底に、ねとついた塊となって絡んでいる。
日が沈み、淡青とオレンジのヴェールに暗闇の“しみ”が滲み出す頃。私は急き立てられるように自宅を出た。大阪環状線からだいぶ離れた辺鄙な場所にある我が家は、築60年の木造建築だ。母の生家でもあるこの一戸建ては大工をしていた祖父が20代の頃に建てたものだという。長い年月を経て作り主が居なくなってからは、補強を重ねて継接だらけになりながらも居を構え続けている。雨水が染みて古木臭い家。私は、そんなボロ屋敷が、私の姿と似ていて少しだけ好きだった。
しみは徐々に広がっていく。薄ら寒い季節に薄い長袖とジーンズを履いていた私は、慣れ親しんだこの街で旅をしている。中学生の頃から愛用している自転車はチェーンからガチガチと軋むような音がして、今にも壊れそうだ。それでも、横目で流れる景色が、日の当たらない、霧に包まれたようなこの空気感が、私を現実から逃がしてくれる。 自転車で10分。踏切を挟んだ地区にある公園が、私のお気に入りの場所だ。人通りが少なく、街灯も遊具も必要最低限。人が苦手な私にとってこれ以上ない物件だ。ベンチの近くまで自転車を押し、籠に入れていた袋から“パン”を取り出す。そのまま腰掛けると、しんとしたベンチの冷たさがお尻に伝わった。パンは時間が経っているせいかパサついていて、何よりさっき家で噛んでしまった舌が痛い。
「なあ、お前。広瀬やろ」
不味いパンに齧り付いていると、ふと、後ろから声を掛けられた。聞き覚えのある、掠れぎみのボーイソプラノ。後ろを振り返ると、刈りたての坊主頭が、形のいい眉を吊り上げていた。同じクラスの野川くんで、野球部の男の子だ。
「……やったら何なん」
「何なん、やない。こない時間までどこほっつき歩いとるんじゃ」
「はぁ、野川くんには関係あらへんやろ。キモいで、正直」
クラスメイトに噛み付く私に対して、野川くんは更に眉間にシワを寄せた。彼の感情を察知して、私も無意識に威嚇してしまう。野川くんの怒りのベクトルが何故私に向かっているのか、分からなかったから。それだけではない。私は、クラスが一緒になった時から彼が恐ろしかった。彼が笑っている時も、怒っている時も、悲しんでいる時も、楽しんでいる時でさえ。得も言われぬ、名前の付けられない恐怖。苦手だという感情は波紋のように広がっていく。
「関係あるあらへんとか、キモいキモくないとかの問題やないねん! 女子が夜に一人で出歩くなっちゅう話をしとるんや! そもそもっ、真冬にこないな薄着で……せっかく親御さんが寄越した身体や、もっと自分を大事にせぇ!」
「あっ、ぐぅッ……!」
その言葉で、私は彼に感じていた恐怖の正体に気がついた。
野川くんが、それを握り潰すように私の腕を掴む。そして、私は、激痛から苦悶の表情を浮かべた。目を丸くする野川くんに、私はしまった、と心の中で舌打ちをする。私が彼の腕を振り解くより早く、バットを持って節くれ立った指が、私の袖を勢いよく捲り上げた。
――小さな円を描いた、真新しい火傷の痕が、びっしりと腕を埋め尽くしている。
「なん……や、広瀬……誰にやられたんや、これ……」
外部に助けを求めなかったことは無かった。けれども一蹴されてしまった。逃げたいと思わなかったことは無かった。けれども逃げたら次は母親の番だと言われた。こういうのを、八方塞がり、四面楚歌と言うんだったか。
口を真一文字に結んだままの無抵抗の私に、野川くんは今度は私の服の裾を捲った。それは、治りかけの痣と青黒い痣が混在した、汚い腹だった。
「広瀬、何で……!」
「――なあ、野川くん」
空のしみは広がりきり、ぬばたまの闇が全てを包んでいた。都会で星が見えないのは、地上でギラギラと輝く人工灯が殺しているからだと、誰かが言っていた気がする。
唖然とする野川くんに、私は小さく語りかける。
「私の身体を寄越したっちゅうオヤゴサンがさ、私の身体を汚してんねんで。おもろいやろ」
私は、野川くんが怖かった。親に愛されているという自覚と自信を持った少年に、私の日常を彼の尺度で測られるという現実が。とても怖い。
星が光に当てられてその姿を消すように、太陽が全てを照らして私達の網膜を焼き尽くすように。私が彼という光に当たるたび、私自身の人生が、暗く、惨めで、悲しいものだと突きつけられるから。だから、とても怖かった。
だったら、私は最初から闇に落ちるほうがいい。自ら明けない夜に逃げ込んで、それで朽ちるのを待ったほうが幸せだ。
誰もが陽だまりを求める人生なのは分かっている。
けれども、私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。